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インタビュー Archive
ボストンでの思い出
- 2009-07-01 (水)
- インタビュー
(矢萩先生は1989年から3年間、ボストン・ハーバード大学で東洋美術史学科の客員教授として教鞭を執られました。これまで世界各地のいろんなところを訪れてきた先生が、一番好きだというボストンについてのお話です)
―――先生がこれまでいろんなところを巡ってきた中で、一番好きなところはどこでしたか?
矢萩 (しばらく考えたのち、きっぱりと)ボストン。
―――やはり気に入ったから、長居することになったんですか? 最初は一年の予定だったのに、三年もいらっしゃったんでしょう?
矢萩 生徒からの要望があるんですよ。先生を辞めさせることも続けさせることもあちらでは生徒の意志に委ねられているんですね。最初の一年を終えて「また一年」と言われて、自分としても一年では短いというところがありましたし。そうしたら「またもう一年」という話になって、結局三年いることになりました。
―――でも「住むのには難しい街だな」という気持ちがあったら、要望があっても応じないと思うんですよ。そういう意味ではボストンは、街並みとか文化を含めて、先生には合っていたんですよね。
矢萩 そうですね。
―――先生、ボストンにいた頃は自由になる時間はあったんでしょう?
矢萩 そうですね、一週間に二回教えていたんですよ。午後から夕方まで。
―――それ以外の時は?
矢萩 市民協会というところがあって、そこが集めてくださった生徒さんに教えるのが週一回、あとは食事に招かれて、着物で行ったりしていましたね。
―――日本にいると、教える、呼ばれるといったたくさんの繋がりがあるじゃないですか。でもそれがボストンにいたらさすがにないですよね。そういう意味では落ち着いた時間を過ごされたのでは?
矢萩 そうですね。でも寂しいこともありましたね。会話があまりないですし。でも、一人だけ昔からの友達がいて、その女性の方にはいろいろとお世話になりましたね。アメリカ人のお医者様と結婚して、ボストン在住40年という方なんですが、昭和61年か62年に和光で「彫刻と書のある風景」という展覧会をやった時、彫刻を担当してくださって、その縁で親しくなりました。また、日米協会にもお世話になりましたね。書の勉強をしたいという方を募ってくださって、集まった20人くらいの方に教えていました。
―――ちなみにその頃はボストンの街中に住んでいらしたんですか?
矢萩 ええ、住むところはハーバードの方で手当してくださることになっていて、寮みたいなところを提供していただいたんですが、お風呂がないんですよ。シャワーだけで。
―――なるほど、お風呂に入る習慣があまりないですからね。
矢萩 そして部屋もベッドがあって小さい感じで。東京とボストンとの間での仕事や、提出しないといけない作品などは、それは自宅で書かないといけないんですが、そうすると7畳から8畳のスペースが必要になってくるんですね。そういうこともあって、アパートを借りたんですが、それはハーバードは持ってくれないんですよ(苦笑) それから、お掃除から何から自分でしないといけないんですね。お手伝いさんを雇うわけにもいきませんでしたし。
―――あ、そうなんですか。それでもご自分としては、向こうからあてがわれた部屋ではちょっとできないということだったんですね。
矢萩 あと、生徒さんには大柄な男性の方が多いものですから、お風呂がないとどうしても肩が凝ってしまうんですよ。皆さん正座はできないですから胡座ですし、座高も高く、肩幅も厚くて、生徒さんを背中から覆い被さるように手を取って、筆順とか筆力等を教えなければならないんですね。でも、その授業を領事さんが見に来てくださって、アメリカの学生というのは授業中喋っていることが普通なのに、皆シーンと授業を受けているのにとても驚いていましたね。それをボストン・グローブという新聞に紹介してくださって、後で一面に大きく出たこともあります。
―――その新聞、いずれ拝見させてください。
矢萩 生徒達の展覧会もしましたしたね。私が一応全部やりましてね。やっぱり若かったなぁと思います。60名ですよ、ボストンには表装をしてくれるところがありませんでした。表装の技術は日本独特なんですよね。とても大事にしないといけないと思うんですよ。ですから、私が裏打ちをしました。
―――そうなんですか、なるほど。
矢萩 日本の職業意識というのは、全てにおいて大事なことだと思いますね。こういった職業訓練というのは絶対に日本は続けるべきだと思いますし、こういうものがなくなってしまったら日本というものはなくなりますよね。
―――そうかもしれませんね。
矢萩 60人分の表装というのは大変ですよ。霧を吹いて、紙を押して、生乾きぐらいのところでアイロンをかけて……。さらに(生徒の作品に捺す)印を作らなければならないでしょう? イモ版で最初やってみたんですけど、イモだと水分があって駄目なんですね。だから今度は消しゴムで彫って……。
―――それも先生が彫って差し上げていたんですか? 60人分も?
矢萩 そうなんですよ。
―――それはすごい! やはり生徒さんには難しいものだったんですか?
矢萩 そうですね。やはり消しゴムは小さいですから、やれと言われても難しいと思います。そうして作品を揃えて展覧会をしまして、その中で優秀な人にはご褒美としてお筆を差し上げたりしました。また、駐在の女性の方々に海苔巻きを作っていただいたんですが、大変な人気でしたね。
―――僕がアメリカに行き始めた70年代は、刺身なんかは好きでも海苔は「真っ黒で気持ちが悪い」と苦手にして食べない方が多かったんですが、抵抗はなかったんですか?
矢萩 そういうことはなかったですね。箸の使い方も上手でしたし。でも、カリフォルニア巻が出てきたのは、海苔を使わなくて済むからというのもあったんですね。
―――そうですね、カリフォルニア巻が生まれたのはちょうど70年代後半だと思うのですが、その頃ロスではさっきみたいなことをよく言われましたね。
矢萩 それで、ボストンの街には「寿司」とか「布団」といった日本語の、漢字の看板が出ていたんですね。ですから「書道」も「Calligraphy」ではなく日本語で「Shodo」と呼ぶようにしましょう、と私は提案したんですね。確かに「書」は「Calligraphy」なんですが、それと「書道」とは少し違うと思うんですね。
―――「Sho, do」がいいと思いますね。「書をしましょう」という意味で、カンマを入れて。
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